st-12 「Schlagerns~」プロモ盤付属のリーフレットより訳出
「Schlagerns~」プロモ盤LP付属のリーフレットより訳出。'78年の時点で、Lars Hollmer自身が書き下ろした、その時点までのバンドのヒストリーと自己評価だ。
サムラは1970年にウプサラ郊外の「鶏小屋」(chickenhouse)で結成された。当初、その活動はテープレコーダーで録音された、異なる雰囲気の状況で作られた即興の音楽だった。その後、その材料から異なる音の素材を拾い集めて曲を創った。成功した即興の多くはカットして保存された。
1970年のウップサラ民俗音楽祭でサムラは始めて公の場に姿を現した。バンドはラーシュ・ホルマー(電子ピアノ)、ハッセ・ブルニウソン(ドラム)、ラッセ・クランツ(ベース)、ベッベン・ウーベリ(コンガ・打楽器)から成ってイいた。
新しく出来たレコード会社「サイレンス」がそこに来ていて、サムラの音楽に閃くものがあると感じたことが、その年の夏の終わりにLPレコードを出すことに繋がった。レコーディングはスタジオではなく「鶏小屋」で行われた。それは処女作に特別な雰囲気と音・独自のインスピレーションを創り出した。自宅のレコーダーで録音したのも、機先を制していた。(Silence SRS4604)
1971年の終わりにベッベン・ウーベリがバンドを去り、僕たちは3人でバンド活動を続けた。1971-72年に他の演奏と混ざった幾つかの国内コンサートツアーが続いた。72年の夏にはコステ・アペトレアと出会った。同年のノルボッテンのツアーではコステが立ち上がってサムラのギタリストとして加わった。
もう一つのメロディを奏でる楽器(ギター)が加わったことで、音の構成が変わり、音により複雑な特性を与えた。
最初のレコードで既にその傾向が見られる、いわゆる「LEGOMUSICERANDET」(サムラが自らの音楽を表現した造語だが、LEGOはオモチャのレゴブロックのこと。レゴ細工のように、異質の素材を持ち寄り組み合わせた音楽という意味であろう)は以前より多くの人に受け入れられ、力強く発展した。
73年の夏に僕らは「Måltid ごはんですよ!」のレコードを出し、それはとてもポジティブな評価をスウェーデン中から受けた。
曲の中の複雑さはよりしっかりとした形をとり、僕らのいわゆる“言葉のない歌”はより受け入れられるようになった。
73年の夏以降、僕たちはそれまでに考えられないくらい多くのツアーを行った。スウェーデンとノルウェーの両国をツアーして回った。フィンランドのあるイベントでの演奏で、僕らはフィンランドのミュージシャンの何人か(ペッカ・ポーヨラ、ジム・ぺンブロークなど)と仲良くなった。その結果、フィンランドでのコンサートツアーを幾つかすることになった。
1974年の夏に僕たちはストックホルムのグルーナ・ルンド(屋外遊園地、野外コンサートの会場になることも多い)で演劇を演じようとして、失敗をした。内部の問題や、協働作業の難しさから、その作品の芽は2回のパフォーマンスの後摘み取られてしまった。
しかし、リハーサルの間にたくさんの音楽が創られ、その一部は1974-75年の冬に出来上がったKlossa Knapitatet のレコードに収録された。(Silence SRS 4627)
1975年の間中、僕たちは元気にコンサートツアーをこなしていった。中でも、イギリスの多才なミュージシャン、ロン・ギーシン(Ron Geesin)と近づくことが出来、親交を深めた。僕たちとロンは一部のライヴ‐即興をスウェーデンとフィンランドで一緒に行った。
ロンとの関係は続いており、恐らく今後も僕たちの間でいくつかのプロジェクトを作ることになるであろう。
1976年の春にグレッグ・フィッツパトリックは僕たちに連絡をしてきて、彼自身が数年にわたって磨き上げてきた4つのセクションからなる作品をアレンジして、演奏してほしいと依頼してきた。僕たちはそれを承諾し、友人・知人のネットワークから選んだ2人の吹奏楽器奏者;カッレ・エリックソン、オルタン・ワランダーと一緒にその作品を76年の夏に演奏した。
このさまざまな場所での果てしないツアーや、果てしない数のコンサートによって、僕たちはステージで披露していた自分たちの演奏の批評や分析をする時間がほとんど取れなかった。僕たちは徐々に音楽的な言語のある瞬間に近づき、1976年の秋に僕たちは根本的な意見の相違から、2つに分裂した。その結果、僕たちは2つの別々の方向に分かれ、実質的にはコステ・アペトレアがバンドを離れた。
そのプロセスは形ある結果が見えるまで、長い時間を要した。僕たちは1976年の秋中、活動を休止したが、皆それぞれ音楽活動には関わっていた(音楽理論、V-A大学、音楽協会など)。
その音楽活動休止は、1970年から始まった僕たちの音楽活動で、唯一の空白期間である。
その休止は、バンド内でしばしば議論になり問題になっていた、メンバー間の関係性や音楽の目標設定に関してポジティブな影響を及ぼした。サムラはその存在期間中、ずっと様々な形での即興にかかわった。それ(即興)が全ての始まりだったし、音楽的な素材のほとんどは「まずはジャムから」だった。しかし、聴衆(ファン)のサムラに対する期待が高まり、「即興の言語」の境界線に関する意見の相違が僕たちメンバーの間に生じて、僕たちは自分たちの音楽素材の中でより一層確率論的な形式に固まってしまい、自分たちのパフォーマンスにおいて、より月並みな目標から抜け出ることが難しくなっていった。
1977年の春にサムラは新しいギタリスト、Eino Haapalaを迎え、彼は今もグループに留まっている。Einoのメンバー加入はバンド内の音の創りに変化をもたらし、それと我々の“新しい”音楽が一緒になってZamla(そう、今後は新しくZを使うことになった!)に新しい特徴を与えているが、それは恐らく様々な関係において、それがSamlaだと分かる特徴でもあるだろう。
我々はその前年、即興の演奏の多くにテープレコーダーを持ち込んで、その結果を「För Äldre Nybegynnare」(サイレンス社SRS4640 A)というレコードに集約した。サムラは「LEGOMUSICERANDET」を完全に捨てることは出来ない。というのは、それは即興と同じくらい我々にとって大事な部分だからである。
音楽に関するアイデアを聴覚化すること程ではないが、この大事な部分(LEGOMUSICERANDET)は、しばしば即興という状況において単に写生的になり、稀にしか具体的な形にならない。
完全な即興は聴衆の観点からすると狭いが、より築き上げられた素材と合わさることで、即興が形成されるにあたって、視覚的・音響的・非音響的・感情的な関係においてより複雑なところで“多く”の構成が機能する。
従って僕たちは即興の作品の他に歌詞の付いた曲の数々である“構成”シリーズ、および「2つの高度な即興/構成のコンビネーション」を続けている。
ほとんどの曲は僕たちが自分たちで「鶏小屋」にて、teac 4-チャンネルレコーダで録音した。
その「構成によるレコード」は「Schlagerns Müstik」(サイレンス社SRS4640 B)と呼ばれる。それらの2枚のレコードを僕たちは、スウェーデンの奇妙な音楽界における意識を高め、聴覚をより敏感にすることを狙って、ダブルアルバムとしてリリースすることを選んだ。この2枚のアルバムが議論を巻き起こし、イギリスで1978年3月1-12日に実施したツアーまで少し我々の「音楽の動き」を高めてくれることを願う。
「反体制ロック」と集合的に呼ばれる動きの中で、幾つかのヨーロッパのバンド(5グループ)はコンサートを数回開催した。
協力したもの達全員に共通だったのは、彼らが自分たちの音楽の形式の発展において妥協を許さないという点である。サムラのへの興味は企画者の間だけでなく、聴衆の間でも大きくて、その後ヨーロッパ内でのツアーが続いた。
! We are not alone !
(以下当時のコンタクト先、ディスコグラフィー。翻訳家による訳出を、本座村が修正。青っぽい字の部分は、本座村による注釈。)
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